なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える 渡辺一史

今日、インターネット上に渦巻く次のような「問い」にあなたならどう答えますか?
「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」 
「なんで税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなくてはいけないのですか?」 
「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では弱者を救おうとするのですか?」 
気鋭のノンフィクションライター渡辺一史が、豊富な取材経験をもとにキレイゴトではない「答え」を真摯に探究! あらためて障害や福祉の意味を問い直す。 
障害者について考えることは、健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもある。2016年に相模原市で起きた障害者殺傷事件などを通して、人と社会、人と人のあり方を根底から見つめ直す。
福祉というのは、年をとったり病気になる可能性を秘めた将来の自分自身や家族のための保険であり、不安のない安定した社会を作るための社会投資で、能力差を補い合う支え合いという社会の柱になるもの。
相模原障害者殺傷事件の植松聖被告は、「重度障害者は意思の疎通が出来ない」と断言しているが、筋萎縮側索硬化症の橋本みきおさんは「唇の形から文字を読み取りコミュニケーションする」口文字、植物状態から生還した天畠大輔さんは「あかさたな話法」、障害者は障害を逆手に取って自分に摘したコミュニケーション法で意思疎通している。
介護とは、単純にお世話するされるという関係ではなく、介護される側が自分の意思を介助者に伝えて、介助者と話し合いながら介護内容を決めてより良い人生の過ごし方を模索し実行していくこと。また人生経験豊富な介護される側が、介助者の相談に乗ったり介助について知らないことを教えたりなど、介助される側が介助する側を支えたり教えたりする相互が影響し合う関係でもある。
障害者と健常者の間に明確な線引き出来る境界線が、あるわけじゃない。医療の発展により病気を抱えた状態で何年も生きていられる人が増えている。職場環境に馴染めずストレスを上手く解消出来ず内科の病気やうつ病などになったり、身体的に健康的でも精神的に不安定で生きずらさを引き摺ったりしてうつ病などになり学校や会社を辞めたりして人生が上手くいかないで苦しんだり、植松被告のように「健常者だから生きている価値がある。障害者にはない」というのは一面的で現実的ではなく存在価値というのは簡単に答えが出せるものではない。
その他にも、障害者の絶えない要求と運動によって前進してきた福祉制度と障害者運動の歴史を、駅にエレベーターをつける「交通アクセス運動」や脳性麻痺者の人権や生存権を訴えた「青い芝の会」などを通して描く章や何故世間はかわいそうで健気な障害者には優しく自己主張する障害者に冷たい「あわれみの福祉観」から自由になれないか考察した章など、きれいごと抜きであらためて障害者福祉の意味を問い直すノンフィクション。
「障害者のために駅につけたエレベーターが、老人や大きい荷物を持った人にも役立てているように、障害や老いや病気を個人の問題ではなく社会全体の問題として受け止めて、やがてお世話になる保険として福祉や社会保障を考えることが大事ではないか」

daiyuuki 全身当事者主義

全身当事者主義。ワーキングプアや毒親やブラック企業などのパワハラやモラハラに苦しみ戦い続けてきた立場から書いた、主にメンタルヘルス、LGTB、ヘイトスピーチ、映画やライブのレビューなどについてのアメブロの記事から、厳選して共有していきたい記事だけ、アメブロと連携します。 クリエイターリンクは、こちら↓ https://lit.link/daiyuuki

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