ナチスのT4作戦と相模原障害者施設無差別殺傷事件
T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで優生学思想に基づいて行われた安楽死政策である。
1939年10月から開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。
社会ダーウィニズムに基づく優生学思想は、ドイツでは第一次世界大戦以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念が生まれていた。
1920年には、法学博士で元ライプチヒ大学学長のカール・ビンディング(ドイツ語版)と医学博士・フライブルク大学教授で精神科医のアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版)により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。
1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている。
ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病や精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。
このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった。
1933年7月14日には「遺伝病根絶法(ドイツ語版)」が制定され、断種が法制化された。
1938年から1939年にかけて、重度の身体障害と知的障害を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を総統アドルフ・ヒトラーに訴えた。
この訴えを審議したナチ党指導者官房長のフィリップ・ボウラーと親衛隊軍医のカール・ブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった。
この訴えは、後に「私は告発する(ドイツ語版)」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった。
1939年9月1日、ヒトラーは日付のない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者」としての地位をボウラーとブラントに与えた。
この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった。
法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが、いずれもヒトラーによって拒否された。
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。
立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった。
ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた。
法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった。
ギュルトナーは総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った。
ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった。
クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。
クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した。
しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された。
結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった。
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた。
T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した。
「処分者」は、郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバスに乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、乳幼児が5000人から8000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。
ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている。
占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた。
「アーリア民族の血を浄化するため、劣等遺伝子を排除する」というナチズムの下で、最終的にホロコーストまで拡大するT4作戦を、ドイツ市民に受け入れ易くするために、ナチスドイツはどうしたか?
ナチスドイツが作ったT4作戦宣伝ポスターは、脳性マヒの男性患者と健康的でハンサムな男性が並ぶ写真に「この立派な人間がこんな我々の社会を脅かす病んだ人間の世に専念している。我々はこの図を恥すべきだ」という文言があるもの。
つまり障害者の社会保障費が、国家予算を圧迫していると強調しているものだった。
それは、相模原市障害者施設殺傷事件の犯人が、「重度障害者のための社会保障費は国家予算の負担になっているから、重度障害者を殺す」と言った主張、元フジテレビアナウンサー長谷川豊が「自業自得な人工透析患者は全員自己負担させろ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」と言った主張と共通性がある。
それは、生きるべき命と死すべき命を選別せよという優生思想そのものです。
障害者が遺伝的に劣っているというのは根拠がないし、生きる価値がないというのは生存権を侵害する危険な考えだ。
健常者であっても、病や事故による障害はいつやってくるか分からない。障害者になっても生きられる社会のための社会保障制度で国民保健で、ある。
例え炎上目的の差別的言論であっても、許さず糾弾し、社会は差別的言論を許さないという姿勢を示すことは、お互いに助け合い命に優しい社会を作るために必要なことである。
ナチスが、かつてしたように弱い立場の障害者から排除抹殺する社会は、勤労者でなくなった高齢者などを排除抹殺する社会。
このような社会ではなく、多様性を認め合い共生する社会を作ることを、津久井やまゆり園で犠牲になった障害者に、追悼を込めて改めて誓いたい。
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